公益財団法人吉田学術振興会
創設者 吉田 直大
当財団の創設者・吉田直大は、明治40年2月1日に福岡県 久留米市に生まれ、小学校の先生で神職を兼ねていた父親の元、厳しい躾を受けて育ちます。しかしながら、家庭の事情により青年期の家計は大変厳しくなり、向学心旺盛な氏は、好きな本が自由に買えず、図書館の本を読み漁ったり、本屋で立ち読みをしては追い出されたりと、大変苦労する時期を過ごします。
山口高商(現山口大学)卒業後、久留米商業高校の先輩である㈱ブリヂストンの創業者・石橋正二郎氏(※)の側近として仕え、身近に『最高の品質で社会に貢献』『自奮自励』(やらされて働くのではなく、自ら喜んで楽しく働く職場づくり)等を標榜する石橋イズムの薫陶を受け、経営の神髄を学びます。
吉田は、一定の生活が送れるようになった昭和20年頃(40歳前後の頃)には、お世話になった地元に恩返ししたい、社会に少しでも役立ちたいとの思いから、母校の荘島小学校や久留米商業高校、教育施設に寄付を始めたと伝えられています。
昭和22年には、㈱ブリヂストンの常務取締役となりますが、昭和25年、㈱ブリヂストンを分社化してできた新会社の社長に就任し、翌26年には、さらに大電㈱(※)を創業し、『会社の発展を通して社員の幸福と社会の繁栄を期す』との経営理念を掲げ、持ち前の情熱と誠実さで大電㈱を導き、業界の信用を獲得して社業を順調に発展させます。
昭和33年(51歳頃)には、母校の久留米商業高校に吉田奨学会を作り、奨学金の給付を始めます。(1年生から3年生までの各クラス1名、合計27名に、今の時価にして月額3万円の奨学金を給付しました。)
それから27年後の昭和60年6月、吉田が78歳の時に、この吉田奨学会を発展させて今の財団(吉田学術教育振興会)を設立しますが、同年9月、病により、多くの人に惜しまれつつその生涯を閉じました。
吉田直大の思いは、今も当財団の事業運営に引き継がれています。
※ 石橋正二郎氏について
石橋氏(明治22年~昭和51年)は、世界一のタイヤメーカー、㈱ブリヂストンの創業者です。氏の補佐的な仕事を10年間務められ、「社史ブリヂストン75年史」の作成に関わった大坪檀氏の図書「見・聞・録による石橋正二郎伝」によると、次のとおりでした。
「石橋氏は、「起業家には社会貢献意識と情熱が必要だ、社会、国家を益する事業は永遠に繁栄すべきことを確信する」と唱え、基本哲学を「世の人々の楽しみと幸福のために」とし、実践した。
氏は戦後日本一の納税者となり米タイム誌でも紹介されたが、もうけすぎだとか強欲だとか、ケチだとか、労働者を搾取する経営者というような声は起きなかった。背景には、氏の巨額かつ継続的な公共に対する寄付があった。
(会社では社員を大事にし)十分な報酬を支払い、労働時間を短縮し、自ら進んで働ける職場づくりをした。「リーダーたる者は部下に尊敬される人格を備えていなければならない」と力説し、「石橋は共産主義者か」とソ連からの視察団に言わしめるくらい社員の福利厚生に力を入れた。」と。
このようにして会社を発展させた氏は、社会貢献への意欲も高く、久留米大学や病院の施設、小学校のプールや講堂など出身地への寄附に始まり、東京の国立近代美術館の建設寄附、ブリヂストンの美術館建設など、継続的な社会貢献活動を行われ、現在に引き継がれています。
※ 大電㈱について
大電㈱は、昭和26年、通信用ゴム電線のメーカーとして創立されました。
当時の我が国は、まだあらゆる面で戦後復興の歩みを続けていた時期で、電話回線網の普及整備も逐次進められ通信用ゴム電線の需要が高まっていました。
一方、九州は台風の常襲地で通信用屋外ゴム電線が緊急復活用資材として求められており、当時の電気通信省からも設立の要望がありました。
以来、一貫して社会に役立つ製品の供給を通じて社会の繁栄に貢献することを経営の基本理念の一つに掲げ、幾多の経営環境の激変に耐えながら電線ケーブルの総合メーカーとして地位を築く一方、培った技術・経験を活かして新たに油圧バルブ等の金属加工品、バッテリーチェッカー等のプラスチック精密成型品をはじめ、OA・FAケーブル、配電用機材等の電力機器製品、光ファイバケーブル及び関連製品、ネットワーク機器製品等へ事業を拡大、現在に至っています。